てくてく

たのしいになりたい

・文化祭と新学期とその他もろもろのストレスで死にかけて、早めに手を打たなきゃ、とカウンセリングの予約を入れたのがちょっと前

・それで今日片づけをいったん抜けて、保健室へカウンセリングに行った。うつ症状を認められて薬をもらった。一日二回、一錠を半分に割って飲む。だから一日で一錠の薬を飲む。あとで調べたら結構軽めの薬だった。躁転対策という意味もあるだろうが、その程度で済むものに延々と苦しんでいたのか、と思うとなんだかおかしかった

・前回、相談室でカウンセリングをしたときはひたすら泣いたが、今回はもっと診断という雰囲気で、それでも時折変なところで涙が出てくる。先生があんまりこちらに気を使わない人で、突然図とか書いてるし、なんだなんだと不思議に思っていたがじきにこっちの方が気楽であることに気付いた。全然知らない他人どうし、情報量の差、立場があるときの距離感

・話を聞いてもらえる、という安心感があるとベラベラ喋ってしまう。それはそれはどうでもいいことまで。薬をもらいたかったのでそう診断されるようなエピソードばっかり喋ったかもしれない。先生が「ああ自律神経が弱いのかな」とか「否定形うつっぽいな」とかうわごとのように言って、それに肯定されている気分になる。ラベリングされる安心感なのか?なんだか健全ではない

・美術をやっていることを最初に言ったら、以後「芸術家だから」とか「芸術家だね」とか言われるようになった。これは結構嫌。芸術家にはなれないと見切ってこの道を選んだのに、結局学科で査定されるのか

・前撮りの時にしきりに「美大?」と聞かれるのも嫌で、教員を目指しています、その中の美術科にいます、とちゃんと言ったのに、「やっぱり美術系なんだね」なんて言われてムっとしたのを今思い出した

・ただ、気分の波をうまく乗り切れたらいい作品が作れるよ、という言葉は、嬉しかった。

・最後に、ADHDかなと思ってるんですよ、と何となく言ったら、あなたきっとADHDだよ、とあっさり肯定された。聞けば先生も発達障害で、いろいろ納得がいっちゃった。これが自分にも返ってくるならそれがラベリングの安心感なのか ADHDもうまく波乗りできれば楽しいよ、研究者とか芸術家とか向いてるよ、って言葉もやっぱりうれしかった。うつとか発達を疑い始めてから、はじめて、未来が若干明るくなった気がした

・去年の文化祭で刺繍と脚本と演出と出演をはじめてやって、一年経って、前二つは自分で納得のいくところまで持ってけるけど、後ろ二つはぜんぜん、手も足も出ないな!経験不足もあるけど、一番は外向性の限界なんだろうな、って朝だか昨日だかに気付いて、裏付けみたいなカウンセリングだった。じゃあこれからは、私ができることと、ある程度頑張れることと、無理なところをちゃんと切り分けるのが、当面の目標になる

・いろいろ考えるけど同じ所でうじうじ悩んじゃうのもADHDの特性らしい。知らんかった。ダメ人間なんだ、とばかり思っていたので、ちょっとだけ安心した

ADHDですって書いてるけど、前も言ったきがするけど、私はグレーゾーンで、診断にばらつきがでる、あんまりおりないかも、くらいのところにいる。気分障害も、障害までいかない症状のところである。病名はつかないけど、つらさとか苦しさは認められて、よかったな、と心から思っている。なんだかぼんやりした中途半端なところにいるのが私らしさなのかもな、と割り切れてきてもいる。今はゆっくり寝て元気なのでそう思えているだけかもしれないが、今日、こういう風に思えたということを忘れないように、忘れても思い出せるようにメモした

・全然関係ないけど、昨日大好きな友達の誕生日だった。夜遅くに誕生日会に途中参加したら、ホストと主役以外がベロベロで、BLのアニメを見て早くセックスしろだのもうヤってるだのロングロングちんぽだの騒いでいた。しぬほど笑った。最悪で大好きだなと思った